ルァンポー・タンマチャヨーの経歴

ルァンポー・タンマチャヨーの本名はシャイブン・スティポン、1944年4月22日でちょうど申年の陰暦6月の白分の第一日と重なり、午後6時シンブリー県プロムブリー郡バーンペーン区のチャオプラヤー川のほとりにある家で誕生しました。ルァンポーは工業局のエンジニアである父ジャンヤン・スティポン、母ジュリー・スティポンの子です。妊娠は家族がピチット県に滞在しているときでした。妊娠した日の夜、母親は夢の中でルァンポーペット、ピチット県で礼拝されている神聖な仏像を目にしました。夢の中で美しい球の肌を持つ子供を渡されると、このように告げられました。「この子は特別な子である。しっかりと面倒を見なさい。将来、大きな存在になる。」と。その後、夢の中でチャオプラヤー川のほとりの砂山から古い仏像を発見しました。その仏像を掘り出し、汚れを拭き落とすと街中を照らすように眩しい光を放ちました。

母ジュリーのその夢は、家族に喜びをもたらしました。特に父ジャンヤンは、人々の拠り所となれる存在になれるようにこの子の成長を応援していこうと決意しました。ルァンポーが産まれた日、これまで仲が悪かった親戚が仲直りし、この孫の誕生を喜びました。

ルァンポーの誕生は調和をもたらしました。まるでひび割れた大地に雨が降り注ぎ、一つに固まるかの如く。

水のように流れていく若年期

父親は公務員ということもあり、出張することが多くありました。そのため、幼少のルァンポーは母親や親戚に育てられ、各地を転々とすることもありました。その後、父親はルァンポーの学業のことを考え、寄宿学校のタラパット校の先生に預け、初等教育(小学校)を受けさせました。

ルァンポーは寄宿学校に滞在している間、学園の所有者であるプラウォン氏に気に入られ、子供のいなかった氏から本当の子供のように可愛がられ、養子にならないかと誘われていました。しかし、父親にとっても一人息子であり、可愛がっていたことから養子縁組を受けることはありませんでした。それでもプラウォン氏はルァンポーを可愛がり、度々サパトゥム宮殿に連れて行きました。そのため、王室の伝統を幼い頃から学び、同時に度々寺院を訪れ、功徳を積む機会に恵まれました。幼い頃から仏教を身近に感じていました。

1950年、父親はペッチャブリー県に転勤することになりました。そのため、恩師であるプラウォン氏と別れることになったのです。父親に迎えられ、アルンプラディット校の初等教育4年生に転入しました。父親と一年近く過ごすとラーチャブリー県バーンポーン群にある有名なサーラシット ピタヤーコム校に転校しました。父親はルァンポーをサマーン・セーンアルン先生に預けました。先生はとても親切な人でした。ルァンポーは中等教育三年生(中学三年)まで学びました。

13歳を迎えるとバンコクにあるスアンクラーブウィタヤーライ校の受験に合格し、中等教育4年生(高校一年)になりました。受験生500人中合格者150人の中で1位という結果でした。一人暮らしとなり、節約と節制が必要でした。そのため、ルァンポーは忍耐強く、一般的な家庭で育った子供と違い、自立し責任のある子供でした。

若年期はまるでルァンポーが偉業を成すまでの準備成長期間と言えました。それは若き頃からの夢であり、今現実となっています。

若き日からの偉大な夢

若くから自由な暮らしをしていましたがルァンポーは品行方正で勉学に励んでいました。この時期から仏教に大きな関心を抱き始めました。ルァンポーはあらゆる知識を自力で身に着け、そのため本を読むことがとても好きで時間があれば、本のフリーマーケットを散策していました。例えば、ロード運河沿いのマーケットやサナームルアン内のマーケットに通っていたのです。それは遊び盛りの同年代の中では異質でした。特に瞑想に関する本を見つけると何度も読み返すほどでした。飽きることもなく、何度も読み返しているとこの世界の苦しみが見えてくるようになりました。さらには世界の偉人に関する本も好きで何度も読み返し、名前や功績を完璧に覚えてしまうほどです。そしてそれはある考えを呼び起こしました。それがなぜ人は生まれてきたのか、何が人生の目標なのかということです。その考えに至ったのは13歳の頃に書かれた日記にありました。

「もし社会に出たのなら社会の上まで上りたい。もし仏法の道を行くのなら仏法の上まで上りたい。そして、仏教をこの世界に広めたい。」

誰が想像したでしょうか。この一人の子供の夢が現実になることを。なぜなら、現在その人物は仏教の大長老となり、世界中で平和を求める人々のこころに瞑想による内なる平和の光を広めているのです。

人生の答えを求めて

スアンクラーブウィタヤーライ校で勉学に励んでいるとき、様々な講師からダンマの講義を聞く機会に恵まれました。それに触発されて友人たちと仏教青年会を発足しました。熱心にダンマを学び、アソークやマハタート寺院などどこかでダンマの講義があれば、シャイブンの姿がありました。

成長するにつれ、仏教への関心は増していきました。時間が空けば静かな場所を見つけては一人になり、こころに芽生えた疑問の答えを探っていたのです。「なぜ人は生まれてくるのか。死んだあとはどうなるのか。徳や業は実在するのか。」と。なぜなら、ブッダの教えを読み、学んでいくとただダンマの知識があっても意味がないと。なぜなら、それはまるで群盲象を評す、あるいは貝多羅葉と同じです。ただ説法が上手いだけで、その本当の意味をまるで知らず、自問を繰り返すことになります。

答えの光

そんなある日ルァンポーは「タンマガーイ」という一冊の本と出合います。その本はプラモンコンテープムニー(ソッド・チャンタサロー)ルァンポー・ワットパクナム・パーシーチャルーンの説法が書かれていました。その中に「仏教の軌跡を正確に歩みたいのであれば、瞑想で知識と見解を身に着ける必要がある。」と書かれていました。

「タンマガーイ」という言葉にこころが惹かれました。この本の中でプラモンコンテープムニー(ソッド・チャンタサロー)は次のように述べました。「タンマガーイ」こそが「如来」であると。さらに三蔵から一部を抜粋していました。「タンマガーヨー アホー イティピ。つまり、如来がタンマガーイである。」そして、最後に「ワット・パクナムは知識を、見解を学ぶことができる。」と書かれていたのです。この言葉にルァンポーは喜びました。自分は正しい道を歩んでいるのだと。

ルァンポーはプラモンコンテープムニー(ソッド・チャンタサロー)ルァンポー・ワットパクナム・パーシーチャルーンの弟子であるメーチー、クンメーアーチャーンルークチャンのタンマガーイについて詳しく書かれている「ヴィパッサナー・バンタンサーン」を読みました。そこでさらにワット・パクナムで瞑想を学びたいと強く思うようになったのです。そして、ある疑問が生まれました。「ワット・パクナムはどこにあるのか。」と。

何度となく、大空を見上げてはこころに引っ掛かっている答えを探しました。それは日に日にこころで形を成していきました。ルァンポーは遊び盛りの、あるいは大金や伴侶など将来に夢を馳せている同年代の若者とは違いました。ルァンポーは知識人と呼ばれていた人たちやあらゆる本、さらに当時有名だった師たちから答えを探していたのです。

師を求めて

1963年19歳になり、大学受験を控えているときにルァンポーはワット・パクナムパーシーチャルーンに行き、クンメーアーチャーンルークチャンを訪ねる決意をしました。クンメーアーチャーンに会うことができれば、タンマガーイの叡智を学べることを期待しました。寺院に到着すると聞きまわりました。「クンメーアーチャーンルークチャンを知りませんか。」と。しかし、誰も知りませんでした。ただ「クンメーアーチャーンルークチャンは知らないけど、クルーチャンなら知っている。」と答える人はいました。ルァンポーは別人だと思っていました。結局会うことができず、帰って受験に専念することにしたのです。そして、カセサート大学に合格することができました。

 

大学での一学期が終わると、クンメーアーチャーンルークチャンを訪ねるという思いが生じてきました。そこで1963年10月の学期休みにもう一度ワット・パクナムへ行くことにしました。しかし、またも会うことができませんでした。そこで同い年くらいの青年に尋ねてみたのです。その答えは「多分、クルーチャンのことだと思うよ。」というので連れて行ってもらい、ついに念願のクンメーアーチャーンルークチャンに会うことができたのです。

平和への道を示す師との出会い

初めてクンヤーイと会ったのは、クンヤーイが53歳の頃でした。外見はただのやせ細っているメーチーでしかありませんでした。体中の骨が浮き出ているほどです。しかし、クンヤーイの瞳はとても穏やかで視線からクンヤーイの人徳を垣間見ることができました。クンヤーイの人柄は強く、力に溢れ、さらに優しさを兼ね備えていました。たとえ、学校に通ったことがなく、さらに字の読み書きができなくても、クンヤーイははっきりと奥深いダンマの問題に答えることができたのです。そのため、質問してきた人は答えを聞き、こころに光が生じたと感じ、立ち止まって考えることができ、世界の引力からこころを解放することができました。初めての出会いでルァンポーは、長年求めていた師に出会うことができたのだと確信し、クンヤーイに弟子入りしました。クンヤーイは前もって知っているかのように答えました。「あなたは、ルァンポー・ワットパクナムが世界大戦中に生まれてくるようにと私に要望したのよ。」この言葉を聞き、ルァンポーは理解できませんでした。しかし、クンヤーイの言葉は正確でルァンポーは第二次世界大戦中に誕生しました。クンヤーイアーチャーンはこれまでの疑問にはっきりと答えてくれました。さらに仏教の教えから生まれた平穏を世界中に広めることができると強く喚起させてくれたのです。最終的に若き日に抱いた大いなる夢を実現させることができました。

人生の目標を見つける

クンヤーイと初めて瞑想の練習をした日、新しい弟子は尋ねました。天国と地獄は実在しますかと。クンヤーイは丁寧に答えました。あります。天国も地獄も実在し、私も行ったことがあります。私の父は毎日10サタンものお酒を飲んでいたことから地獄に落ちました。そのため、私が仏像に入り、父を天国へと導いたのです。あなたは行ってみたいですか。私が教えてあげますから、共に行きましょうと。クンヤーイの答えは、これまでに聞いてきた答えとは違うものでした。ルァンポー自身が知り、見る必要があると示したのです。このように答えたのは、クンヤーイにとって天国や地獄に行くのはそんなに難しいことではないからです。なぜなら、ルァンポー・ワットパクナムが生きていた頃、クンヤーイは瞑想に長けた僧侶やメーチーだけを選抜した部屋で瞑想をしていたのです。

当時、クンヤーイは一日に12時間、昼に6時間、夜に6時間瞑想をし、瞑想で素晴らしい成果を収めていました。そのため、ルァンポー・ワットパクナムは高位の瞑想者たちの前でクンヤーイを次のように称えました。「ルークチャンは唯一無二の存在である。」と。クンヤーイと瞑想をしてからしばらくすると、ルァンポーは長年探し求めていた答えを見つけたのです。「なぜ人は生まれてきたのか、何が本当の人生の目標なのか。」クンヤーイとの瞑想でルァンポーは答えに辿り着きました。「人は波羅蜜を行なうために生まれ、全ての命の最大の目標は涅槃である。」と。

瞑想を精進し、真の平穏に至る

長年探し求めていた人生の答えを深く理解するまで、ルァンポーは全力で瞑想の練習に励む必要がありました。日課の多くは瞑想のためでした。朝6時ごろ、カセサート大学を出るとワット・パクナムパーシーチャルーンに向かいました。その当時、三回もバスを乗り継がなければなりませんでした。バス内では座っていても立っていても、目を閉じて瞑想を続けていました。8時ごろ、ワット・ワットパクナムに到着します。そして、急いでクンヤーイのもとへ向かい、瞑想をします。夜8時まで瞑想を続け、大学に帰るのは10時くらいです。

また真夜中の朝3時ごろ、まだ友人たちが寝静まっているとき、ルァンポーは起きて瞑想をします。なぜなら、一番静かで十分な休息から体中の疲れが抜けているからです。そして、友人たちに見られない時間帯でした。しかし、たまに夜中トイレに起きた友人に見られることがありました。布団をかぶって座っている姿を見た友人は驚きました。瞑想をしていることが分かっても友人たちはからかったりすることはありませんでした。友人たちが慣れてきたころ、親しい友人をクンヤーイとの瞑想に誘い、ワット・パクナムに連れて行きました。それから徐々に先輩や後輩がついてくるようになりました。たとえ、全力で瞑想に励んでいたとしても勉学を疎かにすることはなく、常によい成績を収めていました。それは智慧のある賢人にとって普通のことでした。勉学は一般と仏法の両方を修めることで初めて完全と言えるからです。一般の知識は生計を立てるために学ぶ必要があります。一方、仏法の知識はこころをよく磨くために学ぶのです。そして重要なのは人生に隠されていた疑問を解き明かすことができたことです。つまり、なぜ人は生まれてきたのか。天国や地獄は実在するのか。これらはどうやって証明すればいいのか。これらの深い知識はブッダの知識以外どこの大学でも教えてはくれません。そのため、ルァンポーのこころはより強く仏法に傾いていました。たとえ、試験の時でも朝で終わると昼からバスに乗ってワット・パクナムまで瞑想に行っていました。卒業を迎えるまで常に欠かさず、毎日続けていました。瞑想への熱心なまでの取り組みと、師の言葉に対する敬意と従順さからルァンポーの瞑想は目まぐるしく上達しました。それはクンヤーイアーチャーンを十分に満足させ、次のように述べました。クンヤーイのもとで昔から瞑想をしていた人たちですらあなたの瞑想の成果を認めていると。ルァンポーはクンヤーイから絶大の信頼を得て世話係に任命され、瞑想に訪れる人々へ瞑想を教える手伝いをしました。瞑想によって得られる内なる平穏は、ルァンポーに仏教の叡智への信頼を強くさせました。そして、瞑想の真価が人間の苦しみからの解放だと理解しました。さらにこころに引っ掛かっていた様々な疑問にはっきりと答えてくれたのです。

仏門に入る

本当の幸せと人生の真実が明かされたことでルァンポーはブッダの教えが人間の学ぶべき真の叡智であると理解しました。ルァンポーは一生をかけてでもブッダの教えを学びたいと思いました。そのため、クンヤーイから出家して僧侶になる許可を貰おうとしました。しかし、クンヤーイは許可せず、大学を卒業するようにと諭しました。その理由として「社会的にも賢人となり、仏法においても賢人になりなさい。出家した後、仏教に役立てることができるように。ただ仏教だけに頼らないように。」1968年のクンヤーイの誕生、ルァンポーはクンヤーイに恩返しをするべく、一生涯梵行を続けるという誓いを立てました。それは誕生日のプレゼントでしたが、クンヤーイアーチャーンにとって非常に貴重な贈り物でした。1969年、ルァンポーは農業経済学経済経営学部の学士号を修了しました。大学を卒業すると父親に一生出家することを伝えました。父親は許可すると喜びました。なぜなら、出家をする前に大学を卒業するという約束を守ったからです。母親もまた仏教を継続させるため、出家の報告に来たことをこころから喜びました。

1969年8月27日。陰暦9月の白分の第一五日、非常に吉祥な日となりました。なぜなら、ルァンポーが待ち望んでいたワット・パクナムパーシーチャルーンの本堂で僧侶の黄衣をまとい僧侶となる日だからです。プラテーパウォンウェーティー(現在のワット・パクナムパーシーチャルーン住職ソムデット・プラマハーラーチャマンカラーチャーン)が僧戒師となり、「仏法によって勝った者」という意味の「タンマチャヨー」という法名を賜りました。出家してからある日、ルァンポーは出家に対する理想を述べました。

「出家して僧侶になることは決して簡単なことではない。僧侶の黄衣をまとい僧侶になるために律に従い正しく二二七戒を守らなくてはならない。出家で功徳や善行を積むならば、仏教を頼って出家するだけではなく、仏教が頼れるようになるべきだ。」

この強い理想は、簡単に生じるものではありません。瞑想し、学び、自分自身で仏法の価値を理解した者だけに生じます。以前、ルァンポーはこのように述べました。仏法の力は奥深く偉大である。そのため、強く熱心に命尽きるまで僧侶の黄衣をまとい、仏教に一生を捧げることができると。ルァンポーの出家は仏教に一生を捧げるものであり、世界中に広く遠くまで仏法を布教させるという思いがありました。そして、ルァンポーの一生を捧げた出家は模範的であり、共に瞑想していた仲間が追うように次々と僧侶の黄衣をまとうようになったのです。

畑を開拓して聖なる施設に

僧侶としての新たな人生。タンマチャヨー僧侶は律と戒に厳格な僧侶で、座学と実技の両方においてもダンマの勉強に熱心でした。それに加え、クンヤーイの代わりにバーン・タンマパシットで人々に瞑想の指導も行なっていたのです。瞑想に訪れる人々は日に日に増していき、バーン・タンマパシットでは足りず、縁側から庭の方まで人が溢れかえっていました。特に日曜日は門を開けたままにしなくてはなりません。なぜなら、門の外で瞑想をする人もいるからです。仲間たちは同じことを考えました。寺院を建てるときが来たのだと。今クンヤーイのもとには優秀な人材が揃っていました。多くが大学を卒業した知識も能力もある若い男女で、クンヤーイのそばであらゆる道徳を学んできました。皆の心身は万全でした。タンマガーイ寺院の発足は1970年2月23日のマカブーチャと同じ日に始まりました。寺院の建設は資金3200バーツとパラヤッド・ペタヤポンサヴィスターティパディ夫人から寄進された196ライ(約32万㎡)の土地だけでした。皆が一生懸命に働き、質素な生活をする必要がありました。ナムプリックと野菜が主食で、野菜は近くにある畑で取っていました。しかし、皆のやる気は十分で完成できると信じていました。たとえ、まだ道の先が見えていなくても。特に問題となったのが資金の調達です。このことについてルァンポー・タンマチャヨーは次のような言葉を仲間に掛けました。「人々が布施してくれたお金は、皆が仏教に捧げるため祈念してくれたお金です。それを最大限に活用できるように大切する必要があります。」

この理由からタンマガーイ寺院に使われている全ての素材は丈夫で長期間使用できるのです。同時にシンプルなデザインになり、維持管理し易くなっています。しかし、仏教への敬意を表し、凛々しく洗練されている必要がありました。例えば、本堂は一つ一つの工程を丁寧に、洗練されて建てられています。すべて厳選された最高のものを使っていますが、最大限に節約して活用できる必要があります。

コンクリートを混ぜるときもただ石と砂を混ぜるだけではなく、一度石を水で篩にかけました。石を洗ってきれいにした後、そこから材質の良い石を厳選したのです。砂も事前に砂売りに品質の良い砂を注文し、搬送されたら品質を確かめるために砂に触れ、もし手に土が残るようであれば使いませんでした。なぜなら、汚れがあればあるほど混ぜたときに耐久性が低下するからです。

また本堂の外壁も米粒よりも大きな砂利を外壁に塗り込みました。そして、モルタルを水で洗い流し、表面に半分だけ浮き出るようにしたのです。一般的な砂利は、色が混ざり合っています。しかし、本堂の外壁に使われた砂利は白である必要がありました。そのために慎重に厳選を重ねたのです。その作業は寺院に訪れた人や近所の人たちの信仰の力を借りました。一粒一粒協力して厳選していきました。本堂の外壁は美しい純白の砂利で飾られたのです。

人々の信仰の力で平和を広める

タンマガーイ寺院は常に人々の好意と信仰によって発展してきました。そのため、数多くの人が集まる中心地となったのです。皆が友人や知人を誘い、人数が増えてきたことから196ライをさらに拡張することに必要がありました。そこで世界中の人々の瞑想センターとなるため、2500ライ(約400万㎡)まで拡張したのです。

最初の瞑想堂は500人までしか収容できず、5年もしない内にバーン・タンマパシットと同じようになりました。つまり、人々で溢れかえってしまったのです。そのため、木陰のある芝生の上で瞑想する人がいました。雨が降れば、濡れてしまいました。その後、1万人を収容できる茅葺き屋根の瞑想堂を建てましたが、しばらくするとまた同じようになってしまいました。

最終的に、人々が協力してサパー・タンマガーイを建設しました。面積約50万㎡で30万人を収容できます。細部まで完成するのを待つことなく、1996年には使用することになりました。

これまでの成長速度の傾向からルァンポー・タンマチャヨーは、次の活動に備えて三宝の仏塔であるタンマガーイ大仏塔の建設を始めました。千年の耐久性を持ち、タンマガーイ大仏塔を囲む大瞑想堂には100万人を収容できるようにしました。

100万人の瞑想が実現したとき、全員の純粋なこころの波は一つの力となって世界の雰囲気を変化させ、平穏をもたらします。そして、この瞑想の光景は国境なき時代の通信システムによって世界中の人々の目に移ります。そのため、世界中の人々が答えを探し求めます。なぜ何百万人もの人が全員目を閉じ、静止し、美しく調和しているのか。これは世界各地にまで広がり、瞑想への意欲を高めことができます。

それ以外にも弟子や信者の集まる重要な礼拝堂を建設しました。それは偉大なる師たちへの恩返しでもありました。それがプラモンコンテープムニーの祈念堂とクンヤーイアーチャーン・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーンの祈念堂です。加えて、何千という僧侶と見習い僧に食事を布施する食堂も建設したのです。

https://youtu.be/-VNG4sZe6OY

師への最大の恩返し

タンマガーイ寺院の成功は仏教施設の建設しかり、仏教僧の育成しかり、そして仏教の布教しかり、そのすべてが世界中の人々のこころに平和を導くためです。これらすべての成功は重要な人物のおかげです。それはクンヤーイアーチャーンの後押しがあったからです。クンヤーイは仏法の道に光を示した師であり、その生涯を終えるまで弟子や信者の善行の励み、支えとなってくれました。

クンヤーイの大恩は計り知れないほど大きく、ルァンポー(プララーチャパワナーウィスッティ)はクンヤーイを称え、次のように呼びました。「タンマガーイ寺院の生みの親クンヤーイアーチャーン・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーン」と。

クンヤーイアーチャーンがこの世を去ったのは2000年の9月10日日曜日でした。ルァンポー・タンマチャヨーのクンヤーイへの尊敬と感謝は計り知れません。だからこそ、ルァンポーはタンマガーイ寺院の僧侶や見習い僧、優婆塞、優婆夷、さらに世界中のクンヤーイの弟子や孫弟子と共に2002年2月3日の葬儀までの数年間全身全霊をかけて準備を整えました。それは計り知れないクンヤーイの大恩に報いるため、そして世界中にクンヤーイの大恩を伝えるため、盛大に葬儀が行われました。

今回の葬儀はタンマガーイ寺院が発足して以来の盛大な儀式の一つでした。初めて3万寺院以上の長老大長老が一堂に会し、随従してきた僧侶を合わせると10万人の僧侶がクンヤーイの葬儀に参列したのです。さらにクンヤーイの葬儀に参列するために海外からも数多くの僧侶が訪れました。これほどの人数と規模は、僧侶界でこれまでに起きたことのない出来事だと言えます。

その日は素晴らしい一日でした。クンヤーイの弟子や孫弟子たちがクンヤーイへの感謝を表し、最高の光景を目にすることができたのです。それは10万人にも及ぶ僧侶に布施をする機会を得たことです。大いなる功徳を積むことのできる最高の機会に恵まれたのです。そして、10万人の僧侶からお守りを受け取ることができました。それは最高の説法を賜ったとも言えるのです。

クンヤーイがこの世を去った後もルァンポー・タンマチャヨーは重大な勤めを全うし、さらに意欲的に活動を続けました。ルアンプー・ワットパクナムパーシーチャルーンからクンヤーイが受け継ぎ、ルァンポーに引き継がれたタンマガーイの叡智を普及し、内なる平穏を広めているのです。それを世界中の人々の平和へと拡大しています。

これまでに築き上げたものすべて、ルァンポー・タンマチャヨーが考え、作り上げたものはすべて一つの目標を成し遂げるためです。それがこの世界に生きるすべての命の平和と平穏のためなのです。

世界平和に命を捧げる者

ルァンポー・タンマチャヨーは世界中の人々が真の幸福を探し求めているということを理解した時から、ルァンポー・タンマチャヨーと弟子たちは力を合わせて善行の中心となる施設としてタンマガーイ寺院を築きました。

そこには世界平和は内面の平和から始まるという不変のスローガンでありました。だからこそ、ルァンポー・タンマチャヨーは命を賭して世界や社会に対し貢献しました。数十年に渡って続けてきた活動の数々でルァンポー・タンマチャヨーは国籍や宗教、人種に関わらず、国や組織に貢献してきたのです。“世界平和は瞑想による内面の平穏から始まる”のもと、その結果は世界中の人々の目に留まり、この世界に真の世界平和をもたらすことが出来ると証明してくれました。それ以外にもルァンポー・タンマチャヨーは多くの国の仏教の保護、復興にも助力しました。そして、さらに自然災害に苦しむ国々への支援にも力を入れました。

2016年4月22日、ルァンポー・タンマチャヨーが72歳を迎えた誕生日、また地球環境について考える日に国内外の40ヵ国97の組織がルァンポー・タンマチャヨーを称え、祝福するために訪れました。加えて真摯に、理想を実現させたルァンポー・タンマチャヨーの功績を称え、さらに名誉博士号の盾と表彰状を贈りました。

此度の名誉を称え、盾を贈られた表彰式には各国の有力者や僧団、政府の代理人、国際機関の代理人、さらに40ヵ国の人々が参加しました。これらの組織や人物は世界でも認められる重要な人々です。例えば、サンガ最高評議会、政府、議会、省庁、協会、組合、報道機関、マスコミ、教育機関などがあげられます。それ以外にも隣人であるキリスト協会からも表彰式に参加してくれました。

このように偉大な志を持ち、献身的で、目標と願意を持つ者は如何なる障害が立ち塞がっても決意を諦め、挫折させることは出来ません。ルァンポー・タンマチャヨーが生涯を賭した活動のすべては表彰されるためではありません。しかし、此度の表彰は真の目標へと到達する前の励みとなりました。

ルァンポー・タンマチャヨーの目標はただ一つ、一度も揺らいではいません。それはこの世界の人々を真の幸福と導くためです。“World peace through inner peace”なぜなら、世界平和は平穏な心から始まるからです。気付きと満足な知恵によって計り知れない幸福が生じます。結果、自分の心に平穏が生じ、それが家族やコミュニティ、社会、国へと拡大していき、最後には豊かな平和がこの世界に誕生するのです。